あおやまの毎日日記

普段は経営コンサルタントのあおやまが日々の記録を綴ります。とくに意味はありません。

成長するために、たいせつなこと

30歳になって後輩を指導する機会が少しずつ増えてきた。指導するからには、必ず彼ら彼女らを成長させてあげたいなと思って、一生懸命指導しているつもりだ。

幸い後輩たちは熱心だし、普段指導していること以上に勉強してくるので、指導しているこちら側も刺激をもらえる。「教えている側も学ぶことがある」と聞いたことがあるが、どうやらそれは事実らしい。

ただ、指導しているうちに、最近気になったことが1つある。
それは自分で成長機会を逃してしまっていることがある、ということだ。

わたしの定義する成長とは、以下の2つである。

1、新しいことを知ること、学ぶこと

2、できなかったことが、できるようになること

1については、本を読んだり自ら情報をとったりして、一生懸命学んでくる傾向がある。とくに自分の興味がある分野だったら、よりいっそう努力をしてくる。

その一方で、2の「できなかったこと」をできるようにせず、目をつむってしまうことが時々見受けられる。
その「できなかったこと」についても、大きく3つにわけてみると、、、

・得意分野だけれども、現時点ではできなかったこと
苦手分野だから、できなかったこと
・どちらでもないが、現時点ではできなかったこと

以上のうち、苦手分野だから、できなかったことについて努力を怠ってしまう傾向があるようだった。なぜだろうか、と考えた。

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モチベーションの観点からアプローチすると、もっともモチベーションがあがるのは、「少しの努力で、結果が具体的数値に現れる」こと。だから、筋トレやランニングなど、少しの努力で効果が現れる趣味が社会人に人気なのだ。自己肯定感を生みやすい。つまり、単純にたのしい。

この観点から考えると、「苦手かつ、できないこと」は最もモチベーションが上がらないカテゴリーに属する。苦手な自分と向き合うことは自己肯定感の低下につながりやすい。単純に、おもしろくないのだ。

一生懸命努力しているし、意欲も高いけれどもイマイチ伸びない人は、
おそらく、努力の総時間のうち、「できない自分と向き合っている時間」が最も少ないのだと思う。自ら成長機会を逃してしまっている可能性が高い。

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じゃあどうすればよいのか?という問いが当然あるが、自分としては、
「分野に応じて、ハードルをそれぞれ設定する」ことを推奨している。
とても単純な話だけれども、あまり実行されていないことである。

人は気付かぬうちに、「できる自分」を基準に何にでも取り組んでしまっている。できる分野については、できる自分の設定でよい。しかし、できない苦手分野については、できる自分の設定で臨むとうまくいかない。

できない自分、苦手分野をしっかり見つめて、ハードルを下げる。そして、その低いハードルを跳び続けること。これで必ず上達するとわたしは考えている。

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いつの間にか自意識が芽生えて、プライドが芽生えて、自分像が自分の中で一人歩きしてしまう。それが「おとなになる」ってことなのかもしれない。

けれども、成長するには、こどものように、「できないことに素直に向き合うこと」が必要なのだ。自戒を込めて。

後輩たちの今後の成長が楽しみである。


ロジカルのよわさと、エモーショナルのつよさ

「ロジカル」という言葉の音は、聞き慣れないといかにも賢そうで、むずかしそうな言葉の響きを持っている。

あまり論理的な人間ではなかったわたしにとっては、ロジカルであることに少し畏怖の念があった。そんなエモーショナルよりのわたしだけれども、ふとしたきっかけで転職し、今は思いもしなかったコンサルティングファームで働いている。

人生は何があるかわからないのが面白い。

わたしが勤める戦略コンサルティング業界では、ロジカルシンキングをベースに事象を整理し、最適解をクライアントへ提示し、実行の背中を押すことが生業。

とてもかしこい人が多いし、みんなロジカルな人間。そりゃそうだ、コンサルティング会社は「人」以外何も持っていないし、投資するお金も資産もない。そこでクライアントへ提供できるのはロジカルシンキングから生み出した提案。ここでバリューを発揮していくしかない。

ロジカルこそ正義で、ロジカルこそ正しさの証明。ロジカルはすごいんだ、と思った。

そんな「ロジカル」だが、コンサルティングファームに入り、毎日トレーニングを積んでいくと、ロジカルシンキングは確実にできるようになるということがわかった。

いままで見えていた景色がロジカルによって、整理され、また違った見え方ができるようになる。そして最近では同事にロジカルの弱点もトレーニングを積んで見えてきた気もする。

わたしが考えるロジカルの弱点は2つ。

① クリエイティビティの喪失

② ロジカルで人は動かないこと

①について。ロジカルに考える、ということは「ファクト」を順序立てて積み重ね、その先の答えを導き出すこと。ファクトベースロジカルシンキングでは、行き着く答えは聞き手にとって「論理的に正しく、妥当性のあるもの」である場合がほとんど。

つまり、ロジカルな人間であれば誰もが辿り着く答えであって、クリエイティビティに欠けてしまうということなのです。

物事の整理整頓ではロジカルシンキングは有効だけれども、新しいルールをつくったり、価値観を創造するようなことは論理を飛び越えた「発想」には敵わない。


②について。ロジカルに説明されたところで、どれだけの人が説明通りに動くのか?きっとロジカルでは人の気持ちは変えられない。

いくらプレゼンでロジカルに語っても、正しいことを言っていても、一向に気持ちが変わらないクライアントを見てきたし、友人関係でもそうだ。

人の気持ちに変化を与えるのは、ロジカル以外のエモーショナルな部分(例えば、この人と仲が良い、信頼している等)の影響が大きい。もちろんロジカルであることは人のこころを動かす要素の一つではあるけれど、キーファクターではない。エモーショナルな人の方が、人を動かすことが得意である場合が多い。

ロジカルは整理整頓が得意だけど、新しいものを作り出したり、人を動かすことは苦手。ロジカルベースで生きるのはある意味合理的だけど、独善的になりやすい。

エモーショナルとロジカル、双方をバランスよく兼ね備えた人になりたいなと、仕事をしていて思った今日このごろです。


今日も訪問ありがとうございました。



ディズニー映画「アラジン」の考察

普段映画はあまり見ない。なぜならば、学生時代ずっと映画館でバイトしていたからだ。

映画館でバイトをすると、映画公開前に「スタッフ限定試写会」なるものがあって、希望すれば作品を誰よりも早く無料鑑賞できる特権がある。鑑賞といっても、公開前の作品の映写用フィルムに問題がないか確認する会だ。

毎回深夜に上映会が行われるので、とにかくヒマな学生が集い、半分寝ながらも死ぬほど映画を観てきた。というか観させられた。もちろん劇場で販売しているポップコーンやジュース、ビールは飲み放題である。最高だった。(それがバレて13回ほどクビになりかけたのは内緒だ。)

結局、半分寝ながらも徹夜で映写フィルムを確認しても、異常があることは1回もなく、上映当日にトラブルのはフィルムが熱で溶けて巻き直しができない、絡まって巻けないことに起因するものが圧倒的だった。というわけで、徹夜で行われた試写会、作品確認会はとくに意味がなかった。それに気づいたときは、もうバイトを卒業したときのことだった。

今では、フィルムで映写するより、DVDやブルーレイで映写するシステムに切り替わって、試写会もやっているのか不明である。今度スタッフに聞いてみることにしよう。

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死ぬほど無料で映画を観てきたバイト上がりの小生だから、1,800円を払って映画をみるのはあまり気乗りがしない。だが、隠れアラジンファンの妻(昨日知りました)がどうしても、どうしても実写版アラジンを観たいというので、やむなく品川の映画館へ足を運んだ。品川アクアパークの手前にある、あれだ。

映画は評判通りの大人気で満席。リズム、ミュージック、ハーモニー、綺麗な映像、緩急自在な演出などなど、さすが人を魅了させるのがうまいディズニーと思わせる出来栄えだった。アラジンはアニメの内容もよく覚えていなかったので、これがアラジンか、と個人的に知ることもできてよかった。

ただ、見て考えたことがある。それは、これは原作を元にした単純なラブストーリーではない、ということだ。

みなさん原作はご存知だろうか?
原作は、『アラビアン・ナイト』(千夜一夜物語)として最も有名な物語のひとつの『アラジンと魔法のランプ』である。実は原作だと舞台は中国!らしい。どこもアラビアンではないが、その理由は不明。

原作の簡単のあらすじは以下のとおり。

中国で母親と貧乏暮らしをしていたアラジンが、「おれがお前の叔父だ!」と名乗るマグリブ出身(現モロッコアルジェリアリビアあたり)の魔法使いにそそのかされ、謎の穴倉中にあると言われる魔法のランプを取りに行かせることから物語が始まる。

いきなり知らない人に叔父だ!と言われたら確実に怪しいし、穴倉に入れと言われて入るところなど、ツッコミどころは無数だが、ここでは留保。

結局アラジンは魔法使いにまんまと穴倉に閉じ込められる。閉じ込められた穴倉で手に入れたランプを擦ると魔人(ジーニー)があらわれた。魔神はランプを擦った者の願いを叶える力があり、アラジンはその力を使って穴倉を脱出。そして大金持ちになり、念願叶って一目惚れした皇帝の娘と結婚する。

しかし、魔法使いは魔法のランプを奪い取り、アラジンの御殿ごと皇帝の娘をマグリブに連れて行ってしまう。(しかし、中国からアフリカってあまりにも遠くね?っていうツッコミは留保だ。)

だが、アラジンは指輪の魔神の力を借りる(原作では魔人が2体いるんですね)などして、魔法使いから魔法のランプを取り返し、魔法使いを退治して再び御殿を元の場所に戻し、皇帝の娘と無事結ばれる。というストーリーだ。これが原作である。有名な話だ。

も、もちろんわたくしは、こんな詳細を知っているわけもなく、wikipedia先生に助けていただいた情報を整理したまでだ。

おおまかなストーリーは原作と似ているが、1つ抜けているものがある。気づいただろうか?原作ではアラジンは盗人ではないのである。ディズニー作品では、盗人、ドブネズミなどあだ名がつけられていて、街で生きるためにコソ泥を繰り返している。

なぜアラジンを盗人にする必要があったのか?貧しい出身から盗人にする必要もあるまいし、アラブ人は盗人が多いというわけでもない。

アラジンを盗人にした背景に、何かに影響を受けているのではないかと考えた。ディズニーがなんとなく盗人にするわけがない。小生はこのアラジンを見終わった瞬間、「ルパン三世カリオストロの城」とアラジンを重ねずにはいられなかった。

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カリオストロの城とは、ジブリ宮崎駿氏が監督、脚本を務めたルパン三世の名作映画。1979年に放映された映画だ。今年フランスでも上映されたらしい。

カリオストロの城でも、アラジンのジャスミンのようなヒロインがいる。結婚を拒んでいる国の亡き大公の娘クラリスという女性だ。父にかわって国を治めているカリオストロ伯爵に結婚を迫られたため逃げ出したところから物語が始まる。とても類似した設定だ。

そこでカリオストロ城で盗みを仕掛けているルパンと出会い、ルパンに危機を助けてもらい、ルパンに心を奪われる。そこで、映画のラストで、銭形警部がこう言って幕を閉じる。

「ルパンはとんでもないものを盗んでいった。それは、あなた(クラリス)の心です」という名台詞で映画が終わる。これだ。


アラジンに応用するとこうなる。

「(盗人である)アラジンはとんでもないものを最後には盗んでしまった。それは、女王ジャスミンの心とこの王国だ。」

アラジンはファンタジックラブストーリーと見せておいて、人の心と王国までも盗んでしまうアラジンの壮大な物語なんだと。

カリオストロの城が公開されてから、13年後、アラジンが公開された。年代から見ても、影響を受けていると十分に考えられる。じつはアラジンは日本の巨匠、宮崎駿が描いたカリオストロの城に影響を受けた名作なのだ。

どの絵画も、音楽も、映画も、芸術にはそれぞれ原型があり、模倣があり、下敷きがあり、影響を受けて進化している。ディズニーも例外ではない。

とまあ、ここらへんにしておかないとディズニーファンに怒られそうなので、、、妄想はこのへんで失礼します。